― “王者・ヒラキン”常勝メソッドをどうやって浸透させるか楽しみです。
吉村)平林金属は創部当初、本当にゼロからのスタートでした。「日本一のチームになる!」と志だけは高かったのです。しかしながら、行動や実力が全く伴っていませんでした(笑)。その試行錯誤の過程を、このチームに還元できればと思っています。
節目は“再輝動”のソフトボール人生
平林金属での苦労と再出発
― 平林金属ソフトボール部で創部から活躍されていた吉村監督ですが、決して楽な道のりではなかったと。
吉村)2002年、私は平林金属に勤務しながらサンセールS.B.Cというクラブチームで社会人ソフトボールの活動を始めました。しかし、リーグが始まって間もなくオーナー兼監督が不在となりました。そして私が監督代行としてリーグ戦を戦い抜くという緊急事態に見舞われました。リーグ戦が終わるとそのままチームが消滅してしまい、これからどうしていこうかと…
吉村)そんなとき平林社長が、「岡山国体(2005年)に向けて男子ソフトボール競技を強化し始めたのに、これは良くない」と社内にソフトボール部を作っていただいたのです。こうして私たちは、平林金属ソフトボール部として、”再輝動”して日本リーグで活動することができたのです。
大学進学前の試練と決断
― まさかの社会人1年目から“再輝動”ですね
吉村)ところが、大学卒業時にも出会いがありました。就職先として日本リーグでソフトボールを続けられるチームを探していたのですが叶わなかった。そこで、JICA海外協力隊のソフトボール普及でジンバブエに行こうと試験の準備をしていたのです(笑)。当時、日本リーグのチームは少なく入るのは狭き門でした。つまり、インカレ、インターハイなどで優勝するような選手くらいしか入部できなかったのです。そのような状況の中、いわゆる就職浪人をしていたとき、中京大学の後輩から「岡山国体に向けてソフトボールを強化するために新チームができるから参加しませんか」と誘われ、すぐに岡山へ向かったのです。

気さくで明るい吉村監督は練習でも溌剌と声を出す‐Journal-ONE撮影
ソフトボールとの運命的な出会い
― 就職活動でも”再輝動”ということですか!中京大学に進学されていたので、教職の道を志していたのかと思いました。
吉村)実は、高校生の頃はパイロットが希望の職種でした。それで、その道へ進める大学に進学しようと浪人して受験勉強をしていたのです。ところが浪人中、弟が高校のソフトボール部へ入部して、「ソフトボール教えてよ」ということで勉強の合間にソフトボールを教えることになったのです。
吉村)弟とソフトボールをするなか、そのやりとりを通じて、徐々に「あれ?俺の夢はソフトボールを続けることじゃないのか?」と。まだソフトボールをやり尽くしていないという自分の気持ちに気付いたんです。そこからソフトボールが続けられる中京大学を目指して受験勉強を切り替え、何とか合格した訳です。
高校時代からの再輝動
― 何と!大学進学も”再輝動”とは。人生の節目をソフトボールで”再輝動”してきた吉村監督。きっと、幼いころからソフトボールとの縁は強いのでしょうね。
吉村)いえいえ、私は小学校、中学校と軟式野球をやっていました。ただ、小学校の時に「全国大会に行ける県予選がある」ということで、その大会に備えてソフトボールのチームを編成して試合に臨んでいました。それが結構いいところまで勝ち進んだこともあったんです。それで「高校に入学してからは違うスポーツをやろうかな」とソフトボール部の門を叩きました。

人生の節目をソフトで”再輝動”してきた吉村監督∸Journal-ONE撮影
北谷高校での再出発
― なるほど。北谷高校は高校野球も強豪ですが、ソフトボール部も強かったのですね
吉村)沖縄県は男子ソフトボールも盛んで、県内に20校ほど男子ソフトボール部がありました。ところが、私が入学した年に北谷高校のソフトボール部は3年生部員が卒業して廃部となり、活動ができない状況でした。そこへ、私が同級生を10人集めてソフトボール部に入部しました。それで、何とか3年間活動を続けられたのです(笑)。
― えっ?それでは、高校生のときから”再輝動”してソフトボールに取り組んだと…
吉村)そうですね。言われてみればずっと”再輝動“ですね(笑)。1年からキャプテンを任されてプレーしていました。しかし、最初は試合をしてもコテンパンにやられていました。それでも年を追うごとに、強くなりました。インターハイ出場は惜しくも叶いませんでした。一方では県選抜にも選んでいただくなど、少しずつ実力が付いてきた3年間でしたね。それから今に至るまでは、先ほどお話しした通りです。
