海へ——螺旋の回廊を下りながら
水族館の3じ——掃除、調餌、給餌
「ようこそいらっしゃいました。では、参りましょか」
田井さんの後について、エントランスのスロープを上がりはじめた瞬間、空気が変わった。外の湿った梅雨の気配が遠のき、ひんやりとした青みを帯びた光が体を包む。海遊館は入口から出口まで、螺旋状のスロープを歩きながら各エリアを巡る構造になっている。上がって、下りて——気づけば、深海へと誘われるように、展示の世界へと引き込まれていく。
エントランスを抜けた先にあるトンネル型水槽「アクアゲート」。 ひんやりとした青みを帯びた光が、深海の世界へと誘う。—Journal-ONE撮影
まだ開館前の館内では、あちこちで窓拭きや掃除をするスタッフの姿があった。
「ひたすら掃除です。掃除、調餌、給餌——水族館の3じと言うんですけど。まずお掃除、次に餌を作ること、そして餌をあげること。この繰り返しが基本になっています」
田井さんがさらりと言った。掃除して、餌を作り、餌をあげる。その言葉の飾り気のなさが、この場所の誠実さをそのまま表しているようだった。
「ここからもう、海の中なんです」
田井さんが静かに言った。確かに、一歩踏み込んだだけで、地上の時間が止まったような感覚がある。
太平洋、5400トンの宇宙
世界最大級の水槽——約40年現役のアクリルパネル
スロープを進むと、突然、視界が割れた。
壁ではない。窓でもない。ただそこに、海があった。
「太平洋」水槽——海遊館の心臓部とも言うべき、世界最大級の大水槽だ。縦横に広がるアクリルパネルの向こうに、5400トンの海水が満ちている。厚さ30センチ、1990年の開館当時は最先端の技術だったというそのアクリルは、いまも圧倒的な存在感で来館者の前に立ちはだかる。
5400トンの海水で満たされた、 魚類を展示する水槽としては世界最大級の「太平洋」水槽©海遊館
「アクリルの技術は、その後どんどん進みまして、今は75センチ程度まで作れるようになっているそうです。でも、ここのはもう40年近く現役ですよ」
田井さんが誇らしげに言う。開業以来36年。その歳月の重みを、アクリルの向こうで悠然と泳ぐ巨大な影が証明していた。
ナンヨウマンタが翼のようなヒレを広げて滑空する。メジロザメの仲間が静かに旋回する。ギンガメアジの群れが、光を受けて銀色に煌めきながら渦を巻く。そして——。
「海」くんと「遊」ちゃん
海遊館のシンボル——2頭のジンベエザメ
水槽の中ほどに、その影が現れた。
全長5メートル以上。悠然と、しかし確実に、水を割って進んでくる。ジンベエザメだ。
「オスの『海』くんと、メスの『遊』ちゃん、2頭おるんですよ」
巨大水槽で青く澄んだ水中を悠然と泳ぐ 巨大なジンベエザメ。—Journal-ONE撮影
田井さんが、まるで身内を紹介するように言った。「海」くんが5.3メートル、「遊」ちゃんが6.2メートル。野生では10メートルを超えることもあるというから、2頭ともまだ若い。「海」くんと「遊」ちゃん——その呼び名の親しさが、ここで長年にわたって積み重ねられてきた、人と生きものの関係をそのまま映しているようだった。
ゆっくりと、ほとんど力を抜いたように、いい感じで泳いでいる。
「そのゆったり加減、私も見習わんと…」
私は思わずつぶやいていた。
おにぎり1〜2個分——1トンの巨体の食事量
体重、およそ1トン。それだけの巨体が1日に食べる量は、わずか7キロだという。
「人間に換算したら、1日おにぎり1〜2個分くらいですわ。食べすぎると消化不良になりますから、少量に抑えてるんです」
おにぎり1〜2個。思わず笑ってしまいそうになったが、水槽の向こうの2頭は意に介さず、ゆったりと泳ぎ続けている。
海遊館の巨大水槽を悠然と泳ぐジンベエザメ。 アクリル越しに見上げる雄大な水中世界。—Journal-ONE撮影
ふと、田井さんがアクリルの前に歩み寄り、何かを語りかけるように水槽を見つめた。言葉は聞こえなかったが、その直後、「海」くんがゆっくりとこちらへ向きを変えてきたように見えた。偶然かもしれない。でも、そうではないかもしれない。
深海1000メートルの謎
データロガーが明かした、想定外の行動
「実は、ジンベエザメが深海に潜ることがわかってきてるんです」
田井さんが少し声のトーンを落とした。
「海遊館では、野生のジンベエザメの調査も行っており、背ビレにデータロガーという記録装置を装着して放流し、1ヶ月後に自動的に外れてそれまでのデータを人工衛星に送信するんですが——1000メートル以上の深さまで潜ってることが判明しました。水温が一桁台になるような場所まで」
なぜ潜るのか。それはまだ、誰にもわからない。
その巨体は、ときに深海1000メートルの闇へ向かう。
何を求めて潜るのか。—Journal-ONE撮影
300匹の赤ちゃん——繁殖の謎
「繁殖のこともほとんどわかってないんです。野生の赤ちゃんはほとんど発見されてなくて。過去に台湾で捕獲されたメスのお腹から、30センチほどの赤ちゃんが300匹出てきたことがあって——それが貴重な記録として残ってます」













