酒蔵の搾り場で生まれるもの
前回、名古屋の街なかにある金虎酒造を訪ねた。蔵の奥で水野善兵衛社長が見せてくれたのは、酒を搾る機械だった。発酵を終えたもろみを送り込み、布をかぶせた板と板のあいだで、ゆっくりと押していく。下の甕口(かめぐち)には澄んだ酒がたまり、板のあいだには、板状の酒粕が残る。
蔵の入口には杉玉が下がっていた。いまは茶色だが、扉には、新酒のころの青々とした杉玉の写真が貼られている。2025年12月の日付があった。酒の蔵では、季節が杉玉の色になって目に見える。

杉玉の下、蔵の扉の前に立つ水野社長。—Journal-ONE撮影
酒を搾れば、粕が残る。酒を造る道具があれば、ほかのものも造れるかもしれない。二日間で巡った蔵の中には、酒から受け継がれたものが、形を変えていくつも残っていた。
九重味淋 ―― 酒粕から焼酎へ、焼酎からみりんへ
碧南の九重味淋を興した石川家は、かつては酒も造っていた。蔵に残る年表によれば、1844年に清酒業をやめる決断をし、1846年には酒造道具一式を、同じ三河の鷲塚村へ譲っている。
みりんの原料の一つは焼酎だ。創業者は酒蔵で大量に余る酒粕に目をつけ、そこから粕取り焼酎を造って、みりんの原料にした。酒の粕が焼酎になり、焼酎がみりんになる。前回たどった江戸の鰻屋の甘みは、もとをたどれば酒の蔵から来ていたことになる。
館内の回廊には、熟成の長さによって色を変えていくみりんが並べられていた。搾ったみりんは、大蔵のタンクで1年ほどかけて熟成させる。1706年に建てられ、1787年にこの地へ移されたという大蔵について、同社は、蔵を建て替えればみりんの味も変わってしまうほどだと説明する。だから少しずつ修繕を重ねながら、守り続けているのだという。

熟成の長さで色を変えていくみりんの展示。—Journal-ONE撮影
MIZKAN MUSEUM ―― 醸造の根っこは、お酒
半田のミツカンも、もとは造り酒屋だった。酒を搾れば、使い道の少ない酒粕が大量に残る。その活かし方を考えてたどり着いたのが酢づくりだったと、新美佳久館長は話す。江戸の終わりには酒造りをやめ、酢一本に絞った。館内には、そのとき酒株を譲り渡した証書が展示されている。
江戸時代の粕酢づくりでは、桶いっぱいに酒粕を詰め、隙間ができないよう踏み固め、最後に和紙で目張りをして寝かせた。館長によれば、その期間は3年。寝かせた粕に水を加えて混ぜ、袋に入れて搾り、酢酸菌の力で酢にする。酒粕を桶に入れてから出荷まで、約3年6か月かかったという。
からくりの展示の前で、館長はこう語った。「知多半島は醸造が盛んだと言われていますが、大元の根っこはお酒です」。酒は相場の乱高下や幕府の政策の変更に左右されやすい商売だった。だから、「お酒を作る道具があれば、他の醸造物も作れるだろう」と、醤油や酢を造る人が出てきたのだと思う、と。

大桶の前で語る新美館長。—Journal-ONE撮影
中定商店 ―― 酒の桶と、移された蔵と
館長の言葉を、そのまま形にしたような蔵が、武豊にあった。前回、次回に譲った中定商店の物語である。
同社の資料によれば、隣町の半田は江戸時代に酒造りで栄えたが、明治に入ると多くの蔵が廃業した。初代は廃業した酒蔵から木桶を譲り受け、味噌とたまりの醸造に使って商いを始めた。いまも使う桶のうち、約150年前の6本は、もとは酒造りに使われていた桶だ。桶に押された税務署の焼き印が、そのことを今に伝えている。

酒造りに使われていた桶に残る墨書きと、税務署の焼き印(「第百七号」の下)。—©︎中定商店
蔵の建物にも、よそから受け継いだものがある。社内に残る古い資料によれば、いくつかある蔵のうち2棟は、明治23年と明治40年に買い入れて、この地へ移したものだ。それがもとは酒蔵だったという話は、二代目のころの出来事として、蔵に伝わっているという。酒の桶を受け継ぎ、よその蔵を移して、この蔵は味噌とたまりを醸してきたのである。
蔵に入ると、外よりも少しひんやりとして、なめらかな香りが漂っていた。土壁と瓦の木造の蔵は外の暑さを和らげ、杉の桶の木肌には無数の菌が住み着く。















